ヴィパッサナー瞑想を続ける中でいつの間にかおちいりがちな迷走

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vipassana

先日参加したヴィパッサナー瞑想のサティパッターナスッタコースで、ちょっとした気づきがありました。

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ブッダは自分の体を徹底的に調べつくした結果、体を構成している物質の最小単位である粒子の一粒一粒が、ものすごい速さで生成消滅を繰り返していることを自分の感覚として直接経験するまでに至っていたといわれています。

これは10日間コースでも聞く話なのですでに知っていた話ですが、サティパッターナコースでまたあらためて聞いたとき、この話がもし本当であれば、私たちが自分の体に感じている感覚は今この瞬間だけのものであり、常に新しく、次の瞬間にはもう二度と同じ感覚を感じることはできないはずだと思ったのです。

こう考えたとき、今この瞬間に自分の体に起こっている現実がとても愛おしくなり、感覚に対しての向き合い方が一変し、感覚がより繊細に細部にわたってはっきりと浮かび上がってきました。

ヴィパッサナー瞑想を続けていると、感覚に大した変化もなく、いつも同じ感覚がそこにあるような気がしてくることがあります。

瞑想をして感覚を感じてはいるものの、いつも変わり映えのしない感覚に、いつの間にか私は感覚を感じることを「こなしている」状態になっていて、感覚に無常の性質があることさえ忘れてしまっていいることにこのとき気がつきました。

そして、ある日の夕食のひとコマが頭に浮かびました。

ある日の夕食のこと。

妻が「今日のなすの漬物は酸味が少し強くなっている」と言いました。

私はそれまで何口か食べていながらそれに気がつきませんでしたが、妻に言われてよく味わってみると確かにそんな気もしました。

私が味音痴という可能性もありますが、それ以前に、私の頭は「いつもと同じなすの漬物」という認識で、それを味わうことに意識を注いでいなかったため、「いつもと同じなすの漬物」の味としか認識できていなかったと考えることもできます。

これは固定観念が現実をゆがめることがわかるよい例だと思います。

私はあまりに同じような感覚が繰り返されるので、いつもと同じ感覚がまたそこにあると思い込んでいたのです。

その思い込みにより、そうした感覚しか感じ取れていなかったのかもしれません。

以上のことを踏まえると、毎回毎回まったくはじめてのものに触れるようなつもりで感覚に向き合い、観察をしていくことが、ヴィパッサナー瞑想の理想的なあり方だと言えます。

どれだけ同じような感覚が繰り返されたとしても、これを見失わないようにしたいものです。